拝むということ
物心ついた頃から神社仏閣が好きで、ここ5〜6年は更に拍車がかかり、ある意味では「趣味」の一つ…なんて言うと語弊があるけれど、とにかく神社仏閣を歩くのは楽しい。
木々が多くて空気が良い。
車や人の喧騒から離れられる。
手を合わせて祈ると落ち着き満たされる。
世の中そんな人ばかりではないだろうが、そういうタイプの人は少なくない気がする。
初詣は、特に有名な寺社などは人でごった返すから、喧騒から離れられる…という好ましさは何処へやら…だが、晴れがましく賑わう境内もまた非日常の輝きを感じて嬉しくなってしまう。
(押し合いへし合いするほどの混雑は苦痛でしかないけれど。)
この年末年始は、福岡と千葉、東京でたくさんの神社仏閣に参拝できた。
福岡では高野山真言宗別格本山である南蔵院さん、そして博多の総鎮守・櫛田神社、そのすぐ近くにある鏡天満宮、昨年三月まで住んでいた場所近くの紅葉八幡宮と猿田彦神社。
年が明けて千葉に戻り、正月三日に習志野の菊田神社から成田山新勝寺へ。
翌四日には船橋大神宮と亀戸天神社(古くは東宰府天満宮とも称されていたそうだ)、すぐ近くの香取神社にも初めてお参りした。
まだ今後も活発に(活発に?)神社仏閣を巡る予定なので、いっそ神社仏閣ブログにしようかしらんと思わないでもない。
でも実は神道や仏教にそう詳しいわけではないし、他にも書きたいことがたくさんあるので、やっぱりそれはやめておこう(なんのこっちゃ^^;)…かつて通った幼稚園は鳩森八幡神社境内にあって、高校は浄土真宗の私立高校で、大学がキリスト教(バプテスト派)という節操?のなさだし。
でも個人的な意見だが、宗教に節操がない…というかこだわりがないのは、すごくゆったりと構えていられるように思う。
特定の宗教を固く信じ教えを守っている方々は素晴らしい。
ただ悲しいことに、宗教を理由にした戦争は後を絶たないので…かみさまほとけさま、よくわからないけれど大いなる存在…という緩やかさで敬虔な気持ちを世界中で分かち合えたら、どんなに息がしやすかろうと思ってしまう。
まずは身近な寺社でもいいし、なんなら海でも太陽でも、木でも岩でもいい。
有難いと拝む、誰かのために祈る、世界の平和を願う。
その気持ちの根源は万国共通なはずだから。
習志野の菊田神社(本日の写真)は、息子の産土神社だ(と信じている)。
細かい定義があるようだが、生まれ育った地域の守り神が産土様なので(私の解釈なので違ったらごめんなさい)、おそらく間違いないと思う。
遅まきながら、千葉に戻ってきました…という報告を息子と共にできてホッとした。
私自身の産土様は千駄ヶ谷の鳩森神社だと確信しており、昨夏にしかとお参りした。
拝むということ。
謙虚に、無心に、穏やかに。
財産は残せないけど(断言)、一人息子にそれだけは伝えたい。
まあしかし、息子とはいえ別人格。
彼には彼の考えと価値観が少しずつ出来ているようだ。
私にできるのは、過剰に心配することではなく彼が彼の人生をしっかり歩めるよう祈ること。
そして私自身も、私の人生をしっかり生きるのだ、それでいいのだ。
今年のテーマはバカボンなのだ。(え?)
さて明日から仕事!
働くこともしっかり生きることの一部。
学ぶことも、祈ることも。
なんとなく今日は、ですます調をやめてみた。
何も決まりはないのだ\(^o^)/