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宇宙のコスミで

13の月の暦、アーユルヴェーダ、呼吸法、シンギングボウル。いろいろ学んでいることについて、または日常のあれこれについて、マイペースで語るブログです。どなた様もごゆるりと^_−☆

振り返り見つめる その3

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同じタイトル「振り返り見つめる」は、出来ましたらその1から順番に読んでいただけると幸いです☆



その2からの続き。


・2015.7.24(KIN112=私の絶対反対キン)

   このとき私が思い出した過去は、何人かの友人に聞いてもらったことがある。

書いたことはない。

書こうとしたことは何回かあるが、その都度苦しくなり挫折してきた。

今日こそは…今日がまさに、それを超える日だと感じているので、できるだけ冷静に、読む人にとって分かりやすいように、書きたいと願う…。


私の母(KIN111)は、躁鬱だった。

いつからそうだったのか、実はよくわからない。

ただ私が生まれたときにはすでに躁鬱だったし、2009年に74歳で亡くなるまでずっと、その病と共にあった。


躁鬱病というのは、激しいジェットコースターのようなものだ。

周りを巻き込みながらワーッとパワフルに頂上に上り詰め、突然すごい勢いで下降していく。

上にいる時間が長いときもあれば、どこまでも深く下りていきその場で止まってしまうこともある。


彼女はKIN111、青い律動の猿。

遊ぶことや楽しいことが大好きで、気持ちは若く、言ってみればやや不思議ちゃん。

本来の彼女は確かにそんな人だった。

だから病気でないときの母は、とても魅力的な人だったと思う。

しかしいったんハイになると手がつけられない。

例えば、信じられないほどの長電話を方々にかけまくる、あり得ない額の買い物をする、気が大きくなり自己肯定と自己陶酔の権化となる。

他人に迷惑をかけても意にも介さず(気付かず)、まさに「私が世界のど真ん中」な人になる。


この状態は、それでもまだなんとかなるのだ、周囲と家族は振り回されて疲れるけれど本人はいたって元気、寝なくても全然平気!という時期だから。


一転してロー…つまり「鬱」になると、別人だ。

眠れない、食べられない、何もできない、終いには「生きていたくない」。


小学校から帰宅すると、電気もつけず薄暗い部屋の中で、朝、私が出かけたときと同じ場所に座ってじいっと何かに耐えている母がいた。

何か喋らなきゃ、と幼心を奮い立たせて学校の話をしようとしても、蚊の鳴くような声で「ごめんね、いましんどいから。横になるから」と言われたことが何度もある。


とにかく母を刺激しないように、心配をかけないように…私が自分の本心を意識して母に話さなくなったのは、たぶんその頃からだろう。


永遠に続くのかと思われる暗い部屋と暗い母の姿は、あるとき視界から急になくなる。

悪化して入院してしまうから。


一体何度、彼女は入退院を繰り返したんだろう…年をとってからは、鬱がひどくなりすぎて入院することは減ったが、躁鬱を繰り返すことは変わらなかった。

薬も治療法も様々に変化したのだろうし、躁状態鬱状態も若いときほど激しくはなくなっていたけれど。


ただ強烈に思い出すのは、自分が小さくて本当に無力で、母の異変を敏感に感じているのにどうしようもなくて、家に帰るのが辛くて、だけど帰らないと心配をかけてしまうからまっすぐ帰って、精一杯元気に「ただいま」を言って、とにかく少しでも母を慰めたくて、でもできなくて、暗い部屋が怖くて、だけどそれでも、そんな母でも、家に居てほしくて…そんな幼い日のことだ。


入院した母を、父と姉と三人でお見舞いした日の匂いを今も覚えている。

当時の精神病院は、はっきりいえば牢屋だった。


受付の向こうの厚い鉄製の扉は鍵がかかっている。

そこを病院職員に導かれて通り抜けると、不気味に鎮まった長い廊下。

薄暗くて、消毒の匂いがする。

やがて病棟の扉が現れ、職員は鍵の束を再び取り出してひとつを選び出し、ゆっくり回す。

重い扉が開くと、入院患者のうなるような声が聞こえてくる…。


多分私は、父か姉に手を握ってもらっていたはずだ。

怖くて泣きたい気持ちを抑えて、母の病室まで歩く。

面会ができるくらいには回復した母は、よく来てくれたわね、と笑ってくれる。


ああそうか、また笑えるようになったんだ。

うちにいる時は辛そうだったから、よくなったんだ…。

そう思う私の前で、母が泣き出す。

もうこんな場所は耐えられない、早く家に帰りたい。

お父さん、退院していいでしょ?


父は困った顔をする。

そうだね、先生と話してみるけど…と言葉を濁す。

完治せず家に帰ってきて、また「死にたい」と言い出すことを怖れたのだと思う。


姉と私は、他愛もない学校の話をする。

母が弱々しい笑顔で聞いてくれるのが嬉しくて、あることないこと話す…。


大抵いつも早期の退院は病院の先生が渋り(この辺りは今の病院とはだいぶ違う)、母が数ヶ月入院することもザラだった。

小さい頃は、私はだから、埼玉の祖父母の家にしばしば預けられたのだ。


退院してくると母は、しばらくは普通の「お母さん」だった。

鬱のときには作れなかった食事を作ってくれて、鼻歌を歌いながら洗濯をして、元気に「おかえり!」を言ってくれて、ちょっと怒りっぽいけど明るく陽気な「お母さん」。


姉と私は、やっと安心する。

この平和が、ずっと続いてくれますようにと願う。


願いが長く叶うこともあれば、すぐダメになることもあった。


あれ、なんだか調子が高いなと思っているうちにハイ(躁状態)に突入、そしてまた…。


無限ループ。


思春期にもなれば、そんな母を疎ましく感じてしまうこともよくあった。

相変わらず本心は仕舞い込んで、母に余計な心配をかけないように…穏やかで、手のかからない次女でいる…それが私の生きる道だったが、自分が幼いときのように単純に「母を恋しく」思っていないことはとっくに気付いていた。

長女である姉は、性格的にも私より黒白ハッキリしていて、よく母とはぶつかっていた。

私からみれば、よくあんなにストレートに物が言えるな…と感心するくらいに…真正直でウソがなかった。


私はウソだらけだな、と中学生ぐらいには感じていた。

母を疎ましく思うこと、そんな自分に辟易とすること、悶々としていても家族の前ではおくびにも出さないこと。


たまに私を「優しい」と言ってくれる友人がいた。

母からも「お姉ちゃんはキツイけど、あんたは優しいわよね」とよく言われた。


吐きそうだった。


優しいんじゃない、ズルいだけ。

姉のほうがよっぽど優しいんだ、だって姉は本心をぶつけているから。


でも、その言葉も飲み込んだ。

姉ほど勉強もスポーツもできないけど、おっとりしている次女…という、母の望む(と信じていた)キャラクターを演じ続けた。


本当は、姉も心のすべてをさらけ出していたわけではないし、逆に私はごくたまにだが本心をこぼしてしまうこともあった。

母の前で「生まれたくて生まれたわけじゃない」と言ってしまったことは忘れられない。


あれは…小学校三年だか四年だか…転校を繰り返し、友達がなかなかできず、福岡の方言にも馴染めず、公園の樹木と図書館の本だけが話し相手だった頃だと思う。


そんな衝撃的な言葉をきいて母は絶句し、得体の知れないものを見るような顔をした。


しまった、やっちまった!と慌て、その日以降なおさら細心の注意を払うようになったが、時々母が思い出して「あのとき…」と言いかけるのをその都度なんとか誤魔化した。


高校生の頃だろうか、母から「あんたはこわい。何を考えてるんだかわからない」と言われたのも、そのことがあったからだろう。


それを覆い隠すため、私はより一層、母の気持ちの動きに敏感になり、母が不快に思う態度や言葉は封印し、母が病気にならないように、全身をセンサーにして(ただしそれと気付かせず)母と相対するようになった。

 

たぶん、私の目論見は大成功だった。

もはやそれが母のためなのか、自分のためなのか、境界がなくなっていたけれど。


亡くなるまで母は私を「優しい子」だと信じ、頼りにし、ある時期からは母子逆転して、「あなたのほうが私のお母さんみたいね、本当にあなたは私の薬箱だから」と嬉しそうに言った。


私が長い間かかえてきたヘドロのような思いを知らず、亡くなりかたはあっけなく、良い笑顔で7年前の2月に旅立った。



長々と書いてきたが、私が久美さんの前で思い出した「幼い日の自分」は、実はまだここに書いていない。

それは最も根源的な出来事で、母が亡くなり遺品整理を姉としているときに、久しぶりに思い出したこと…忘れたことなどなかったが、あえて思い出さないようにしていた日のこと。 


それを、書かないと。

いつやるの?今でしょ!

(もはや古典…?^^;)


いったん締めます、続く。