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宇宙のコスミで

13の月の暦、アーユルヴェーダ、呼吸法、シンギングボウル。いろいろ学んでいることについて、または日常のあれこれについて、マイペースで語るブログです。どなた様もごゆるりと^_−☆

振り返り見つめる その5

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久しぶりに2日続けて働いたらちょいグロッキーなコスミです^^;、こんにちは!

10連勤とか出来てた過去がシンジラレナーイ!

いまの職場では、そんな働き方はしなくて済むので有難いです、時給やっすいけど!笑


さて、シリーズも後半です(何回シリーズになるか自分でも不明なのですが、まあ後半には違いないはず^^;)。

(この「振り返り見つめる」はシリーズです、出来ましたらその1から順番にお読みください。)


母のこと、母にまつわる記憶を、その1から4までに色々と書いてきたが、まだデトックスしきれていないようで…きりがないんじゃないかと思いつつ、この際だからもう少しだけ掘り起こしてみようかと。


母の口癖は「家族は一心同体」あるいは「家族は運命共同体」だった。

幼いころから、それを言われるたびに重苦しく感じていた…それは「束縛」に他ならないと本能的に察知していたから。

愛情深く、弱い立場の人のためになることは熱心に行い、正義感も強く魂の美しい人だと娘ながらに思っていた。

しかし家族(特に姉と私)に向ける愛情は時として息苦しいほどで、簡単に言えば「威圧的」であり「過干渉」だった。 

さらに「超」がつくほどの心配性。


精神的にバランスを崩しやすい母に心労をかけないように、細心の注意を払って生きることにした私であったが、それはやはり自分を守るためでもあった。

余計なことを言って「心配モンスター」を刺激してはならないと無意識に考えたのだと思う。


そんなこんなが身に染み付いて、サンドバッグ体質(私を殴って気がすむならどうぞ、私は何も言いません、殴り返したりもしません、なぜなら私は殴られるために存在するのですから…とでも言うべき体質)を形成したのだろうし、本当に去年の夏前までは「人生は修行である」と心から信じ、それをことさら辛いとも意識せず、ごく当たり前のことだと考えていた。


去年、その「無意識の価値観」がひっくり返ったときに、そりゃ身体もおかしくなるし声も出なくなるわいな‼︎と強く思った。


7年前に母が亡くなってからも、私は「サンドバッグ」であり「修行僧」であった。

母の死は、悲しいことであると同時に「解放」でもあったはずなのに。

 

長年の思い込み、習性、もしくは呪い。

自分で自分にかけた「呪い」だよな、と今はハッキリわかる。


呪いが解けたのは、母が亡くなった後に「ご乱心」した父と、鬱病で会社を休職して私と息子に「DV」もどきな言動までした夫のおかげ、笑


もう笑うしかないっすよ!


小さな頃から私の心の拠り所だった父が、だんだんと短気になり、気づけばひどく尊大になり、粘着クレーマーに成り果て終いにはほとんど狐憑きのようになって千葉の精神病院に入院したのは2012年の3月だった。

(何故、福岡在住の父が千葉の病院に入院したのかは、話が長くなるので割愛するが、このネタだけでも小説が書けるんじゃないかというほどの奇想天外サスペンスミステリーだ、元を取るべきかしら、笑)


2011年は3月に震災が起きて、それだけでも十分過ぎるほど記憶に残る一年だったが、個人的にも父の乱心、自分の喘息(出産後に体質が変わり喘息を発症した私は、その後ストレスを感じるたびに症状が出るようになった)の悪化、夫の精神バランスの崩れ…と、散々な年であった。

(実はこの年から、私の「変化変容の13年」が始まっていたのだ…青い13年の青い年だけありますわいな!)


年が明けて2012年、暴走が止まらない父が単身上京してきて様々な騒ぎを起こし、ついには身柄を確保して、精神病院に入ったのが3月25日だった。

自分でつけた「父の記録」というノートを久しぶりに見直してみて、私って意外とマメじゃん!と自画自賛、笑

せっかく年月日がわかるので、KINを調べる…KIN196かぁ、ふうむ。

わ、上京してきた日は16日だからKIN187だ!去年の私の道筋キン…感慨深いというか何というか^^;


父の入院中、その精神病院には何度も面会に行った。

忘れかけていた「精神病院の匂い」で様々な記憶が蘇ってきた。

もちろん、昨今の精神病院全体はかつてのような「牢屋」イメージではない。

治療法も薬も進歩していて、ある程度よくなれば「普通の」病院と変わらないような病室に移れる。

しかし入院当初は、まさに「檻」「独居房」のような部屋だった(本物の独居房は見たことないけど)。

二重の鍵、脱走防止の柵、小さな格子窓、トイレとベッドと簡易机だけの部屋。


思い出すなと言われても思い出さざるをえない。

見舞う相手が母から父に変わり、小さな私はおばさんになったが、そんなところにいる親と対峙しなければならない痛みは、なんら変わらなかった。

父は私の目を「濁っている」と非難し、こんなところは耐えられない、早く出せと訴えてきた。

歴史は繰り返す…私はかつての父のようにその都度言葉を濁し「そうね、先生とよく相談するからね」としか言えず…。


考えていたよりも随分早く、父は退院できることになったが(本人が住んでいる場所ではない…という点から病院側より早期退院、福岡での治療を申し渡された)、その時点でも父は本来の父からは程遠かった。


あんなところに長く入っていたら、本当におかしくなる。

母さんは辛かっただろうな、何度もあんなところに入って。

俺は最初からまともだから、まあまあ早く出られたけれど。

まったくひどいところだった!


福岡まで送る道すがら、父はずっと嘆き、文句を言い続けていた。


このときに、気づけば良かったのだ。

何故、母だけでなく父までも狂い、それでも自分のなかに「怒り」の感情は芽生えず(気づかず)、「悲しみ」だけに支配されるのか、という…歪さに。

いびつ。

まったくもって、歪だったのだ、私は。

抑圧した感情は、もはやペドロですらなく、自分をがんじがらめにする檻になっていたのに、どちらかといえばバランスの良い人間だと自負していたのだ。


やみくもに感情を爆発させよ、ということではないけれど。

いまだに激しい感情が怖くて嫌だし、できるかぎり「おだやかに」過ごせることが一番の望みだったりするけれど。

でも、溜め込みすぎて自家中毒を起こしていることにも気づかないのは、ナンセンス。

 

母が亡くなったあとに父が発病したのは、ある意味では私の「学び」のためだったのかもしれない。

父本人の抱える問題(彼自身の今生のテーマ)が一番影響しているのだろうが、私はあの母と父のもとに生まれてきて、あの姉と共に生きて、さらにあの夫に巡り合ってあの息子が生まれ…その全てには、私自身のテーマが隠されているのだと思うから。


2012年、千葉から福岡に引っ越したのは夏。

2015年3月までの2年半に経験した様々なこと、書いておきたいことは沢山あるが、今回はそこまで手を広げるのはやめておこう。

シリーズが永遠に続きそう^^;


一旦、更新します(^ ^)